何かをみて「これだ」と思う直観について2

そのとき、わたしが直観している。その時点でのわたしの思考や感覚の突端かその先にある言葉から連想されるイメージ、その言葉自身のリズムやニュアンス自体から想起される個人的で言語化未満のもので、無意識に似てそのとき初めて発見されたかのような体裁で現れる記憶の新鮮な輝き。

何かをみて「これだ」と思う直観について

経験から語ろう。本屋で目を引くものを見つける。そういうものは、だいたい一般向けの本で、帯やタイトルに、どこかしっくり来るものを感じている。

このとき、わたしはきっと、明確な何かを掴んでいるわけではない。それでも、その本が自分の得意とする分野のものであればあるほど、じっさいに読んで当たりだったことが多い。

「当たり」とはいえ、内容を事前にキャッチしているはずがない。なぜなら読んでいないのだから。ところで、読まなくてもわかる本というのは世の中にたくさんあって、わたしは自分でそうした本だとラベルしたものは手に取らない。

読まなくてもわかる本は、つまり、もともと関心がない(けれどもその類いの本から遠くにいる自分には、解像度が悪いなりに、その本に書いてありそうなことの見当がつくため手に取らない)か、関心はあっても自分には必要ない・気にくわないことがわかるものだ。

そうして、本屋でわたしは、読まなくてもわかる本が増えれば増えるほどに、手に取る本が減る。反比例して、手に取る本の当たりの確率は高くなり、まれにその感覚はドンピシャになることもある。

繰り返しになるが、ドンピシャといっても、それは内容を事前にキャッチしているわけではない。では何がドンピシャなのか。わたしは何を当たりだと思い込んでいるのか。

本を手に取る。そのときここにあるのは、期待だ。自分の求めるものがここにあるはずだという思い込みだ。

この思い込みは本を読んだあとに、更新される。なぜなら、自分が何を期待しているのか、手に取った時点では明確になっていないからだ。わたしが本を読んで、その本が期待を裏切らず、当たりを引いたと思ったなら、それは文字通り、その時点でその本を当たりと認定したためにその本は当たりになったのである。

さて、本屋で直観的に「これだ」と思って本を手に取ったわたしは、何を直観しているのか。あるいはどのような状態にあるのか。

生活は重い

昔、ある女性の作家は、家事の合間に、散漫な時間をうまく使って書いたという。自分にはとてもできそうにない。いま書いてるこの時間で書けと言われれば、こうした文になってしまう。

そこで、こうした状況で書くときはいつも、それを目指して意識してみることを試みてみようと思う。

生活してみる

今日は、妻が仕事なので1日子供をみる。スマホ以外は手につかない。赤ん坊を連れて外出すると、女性の高齢者によく声をかけられる。これをおばちゃんホイホイという。

彼女たちのなかには、断りなく赤ん坊を触ってきたり、遠慮なく話を続ける人もいるので、正直ウザいときもある。ちやほやされる人は誉められることに慣れているけど、それと同様に、何を言われても笑ってなにも考えずに返事をすることに慣れた。

世間話とはこういうところから生まれる。そしてこれは初対面同士が本題にはいる前にジャブを打つ仕草で、礼儀のような機能をもつ。つまり、個人間の話から生まれるというよりは、社会の慣習のうえに成り立つものと言えないか。

生活に携わる

多くの人にとって、自身の生活をまったく顧みずに、仕事や趣味に没入して生きていくことができるようになったのは、この20年ほどのことだ。

とくに日本の生活に関する利便性は世界有数のもので、生活をないがしろにして社会的に生きては行けないということはない。ここで生活とは、人が自身の欲望に忠実に生きる時間以外の、すべての時間だ。それはたとえば、したくもない自炊のための買い物をはじめとする掃除・洗濯等の家事、自分以外を起点とする出来事に関わらざるを得なくなる家族との関わり全般のことなどだ。

そういう意味で、いまほど独身者に嬉しい時代はない。生活に関する物事はかなりの部分をアウトソーシング可能で、昔のように切っても切れない社会関係も減り、世間的な圧力もなく独身でいることができるからだ。彼らは、自分の時間を最大限まで自由に使える。

もちろん、昭和のある時期までの日本人男性の一部は、仕事という言い訳によって、自身の時間を最大限に活かすことができたが、男女平等が進み、それも難しくなった。
いまは独身者が個人の自由へのこだわりを貫き通しやすくなり、独身を当然視する社会になったとしても、それは当然ではないだろうか。リスクや労力をかけて、気の合わない人と付き合ったり結婚する必要もない。いくらお先真っ暗な世の中でも、老後の安心ために、無理して結婚するのも悲しい。

わたしは若いうちに、生涯独身でよいと判断し、そのためのリスクも覚悟の上でやってきた。にもかかわらず、結婚したのは、わたしのだらしなさのせいだ。最近ようやく、自分が生活に身をいれざるを得ないことを実感し、いまはいかに生活に携わるべきか考えている。

そもそも、昔は生活にたいして、多くの時間と労力を割いてきた。掃除を定期的にこなし、毎食の料理と片付けにかかる時間は少なくない。家事はすべて自前でやりくりしていた。近所の人と物の貸し借りして、子供や老人や病人の相手をした。いま、それらを代補する機能がどこにいったのか、知らない。すべてビジネスに回収されたとは言えないが、かなりの部分が企業によって担われている。

こうした状況を、個人主義の行きすぎだというのは雑な話だ。しかし、皆がこの状態を望んでいるのも確かだ。面倒なことや単調な作業は誰も望まない。ただ好きな人と好きなことを好きなだけしていられればよいのだ。それ以外は邪魔なもの、自分には関係のないことなのだ。少なくとも、それ以外のことは多くの人にとって、自分の欲望の実現には関係ないということになっている。

そういう時代に、結婚して子供を育てること、そしてそういう生活に携わることは、馬鹿馬鹿しいかもしれない。恋愛と結婚のイデオロギーが残るとはいえ、自分の好きなことだけして生きていけるのに、そうしないのは変人だからなのか。

話が頓珍漢なものになっているが、とにかく、わたしはこれから、仕事も趣味もできないため、生活に身を入れようとする。それはわたしの知見を増やしてくれるだろう。でも、なんとかそれを自分の関心に引き付けられないだろうか。

コルシア書店の仲間たち

須賀のことは敬遠してきた。別に彼女を特別きらう訳じゃない。塩野七生津村節子といった、いまから数十年前の昭和の古い女性作家には、端的に偏見から、近づかないようにしてきた。一言でいえば、彼女らの余裕が気にくわないからだ。自身の向ける視線に反省なしに、中産階級の安寧な目線で、上流階級やより良きものを描き、そして、作家自身の経済社会的な外面と人間関係の豊かさという、すべての面で生活における優位が鼻につくのだ。

安楽な椅子に座り、己の贅沢な悩みや悲しみ、ノスタルジーに浸る余裕を見せつけられるように感じるからだ。悲しいことに、そこからわたし自身の労働に明け暮れる貧しい生活を比べずにはいられない。

彼女たちは、読者に驚きを与えず、ぬるま湯の文章で延々と無意味な感動を垂れ流し、読者もそれを疑問に思わず運ばれていくことに抵抗がない、よく言えば節度ある内容は、いま現実に想像できない。そんな時代はもうない。

わたしたちは時間とお金に追い込まれ、外界の暴力にいつ晒されるか怯えながら生きている。

コルシア書店の仲間たち (文春文庫)

コルシア書店の仲間たち (文春文庫)