生活に携わる

多くの人にとって、自身の生活をまったく顧みずに、仕事や趣味に没入して生きていくことができるようになったのは、この20年ほどのことだ。

とくに日本の生活に関する利便性は世界有数のもので、生活をないがしろにして社会的に生きては行けないということはない。ここで生活とは、人が自身の欲望に忠実に生きる時間以外の、すべての時間だ。それはたとえば、したくもない自炊のための買い物をはじめとする掃除・洗濯等の家事、自分以外を起点とする出来事に関わらざるを得なくなる家族との関わり全般のことなどだ。

そういう意味で、いまほど独身者に嬉しい時代はない。生活に関する物事はかなりの部分をアウトソーシング可能で、昔のように切っても切れない社会関係も減り、世間的な圧力もなく独身でいることができるからだ。彼らは、自分の時間を最大限まで自由に使える。

もちろん、昭和のある時期までの日本人男性の一部は、仕事という言い訳によって、自身の時間を最大限に活かすことができたが、男女平等が進み、それも難しくなった。
いまは独身者が個人の自由へのこだわりを貫き通しやすくなり、独身を当然視する社会になったとしても、それは当然ではないだろうか。リスクや労力をかけて、気の合わない人と付き合ったり結婚する必要もない。いくらお先真っ暗な世の中でも、老後の安心ために、無理して結婚するのも悲しい。

わたしは若いうちに、生涯独身でよいと判断し、そのためのリスクも覚悟の上でやってきた。にもかかわらず、結婚したのは、わたしのだらしなさのせいだ。最近ようやく、自分が生活に身をいれざるを得ないことを実感し、いまはいかに生活に携わるべきか考えている。

そもそも、昔は生活にたいして、多くの時間と労力を割いてきた。掃除を定期的にこなし、毎食の料理と片付けにかかる時間は少なくない。家事はすべて自前でやりくりしていた。近所の人と物の貸し借りして、子供や老人や病人の相手をした。いま、それらを代補する機能がどこにいったのか、知らない。すべてビジネスに回収されたとは言えないが、かなりの部分が企業によって担われている。

こうした状況を、個人主義の行きすぎだというのは雑な話だ。しかし、皆がこの状態を望んでいるのも確かだ。面倒なことや単調な作業は誰も望まない。ただ好きな人と好きなことを好きなだけしていられればよいのだ。それ以外は邪魔なもの、自分には関係のないことなのだ。少なくとも、それ以外のことは多くの人にとって、自分の欲望の実現には関係ないということになっている。

そういう時代に、結婚して子供を育てること、そしてそういう生活に携わることは、馬鹿馬鹿しいかもしれない。恋愛と結婚のイデオロギーが残るとはいえ、自分の好きなことだけして生きていけるのに、そうしないのは変人だからなのか。

話が頓珍漢なものになっているが、とにかく、わたしはこれから、仕事も趣味もできないため、生活に身を入れようとする。それはわたしの知見を増やしてくれるだろう。でも、なんとかそれを自分の関心に引き付けられないだろうか。