devil may cry に

devil may cry = DMC

そのままとれば、悪魔も泣きだす「恐ろしさ」という意味か。


最強の主人公が悪者(悪魔)を倒す勧善懲悪のバトルアニメ

といって紹介されたら、多くの人が興味を失ってしまうと思う。


舞台は、1960年代、西欧の古典建築と高層ビルが入り混じる地方都市。
悪魔退治を専業にする便利屋が、どんな依頼も、その実力で解決する。

といった紹介でも、全く説明になっていない。


このアニメの何がおかしいかといえば、全体にわたってどこか〝ヌケ〟ているところじゃないだろうか。

ビジュアルもセリフも「カッコイイ」はずなのに、まったくキマッていない主人公
ラストに向かって構築され盛り上げられていくストーリーが、どこか型にハマらない

他にも、挙げていけばキリがない。
だからこういい直してみる。

アニメには珍しく、オープニング、エンディング曲がともにBGM並
どのキャラも立っているのに、語るに落ちている
悪魔の存在や人間関係、事件の背景など、全てあいまいに済まされている

どこをとっても、構成の関節が外れているわけだ。
要素を取り出してみよう。

キャラクター ストーリー 作画 ともに同じ方向を見ているようで、それぞれ独自のことをしていることで、それぞれが合成されていないのではないだろうか。

いいかえると、視聴者にとっては、一見して一面的な作品なのだけれど、それぞれの要素が異質なために、かえって凸凹が際立って見えてくるのだ。



以上、ほとんど調べもせず書いてみた。ゲームの方が有名なんだろう。

漱石から始めるわけでなく 2012/2

 久しぶりの「坊ちゃん」再読。以下にメモ。

・一筆書き 一日平均四百字原稿用紙31枚(ページ換算一日15〜20ページ)
=初日(原稿第一回目)だけで二(三)章までは書いているかも

・冒頭からのリズム→独白 なので段落毎に感想めいたものをつなげて味つけ
スターンというよりは自然主義に近い? 作文的文章の話し言葉=読者に訴える→やはり独白には悲劇的色調が強い

・キャラの上下関係の類似性
没落系 坊ちゃん―清―山嵐 敗北 移動(うらなり)
上流系 赤シャツ―教頭   勝利 定着(マドンナ?)

・親譲りの無鉄砲
両親ともに坊ちゃんに冷たく、坊ちゃんも親の死への素気なさ 親≒清

・伏線の多用 「いま」「今日」



 ついでに「三四郎」も。

・冒頭数ページの異様さは、幻想小説じみている その後の「夢の様」な轢死事件とは違った意味で
いうならばカフカだが、それほど決定的な性格をもたないのが漱石らしい
轢死事件への入りの上手さ 


中途

本は、馬鹿買い、選択買い、気分買い、とりあえず買っとくかい? 2012/3

 大学以降、持ち金が増えて馬鹿みたいにどっさり本を買うようになった。が、大学生には大して余裕はないので、すぐに安い古典名著系ばかり選んで買うようになる。そのうちそれでは飽き足らずに、そのとき気になるものを古本・新刊を問わず気分で買うことにする。そしていつのまにか、外に出れば自然に本屋へ足が向き、欲しくもない本をとりあえず大量に買い込み、壁本ばかりの本棚を持つ自分が厭になってくる。いくら購買欲を抑えて厳選しても、今後も読まないだろう本は全体の何割にも及ぶ。どうしよう。自分は本を捨てたり売ったりできない性分なのだ。しかし、今後も本は増え続けるにちがいない。


 本好きの本買いはだいたい、こんな感じじゃないか。僕だけだろうか。本買いの本棚には数千〜数万冊、由良君良の書豚・書狼・書痴のどれに入るにしても、どうしようもなくアホな人たちである。そして自分も、あと数年で五桁のアホになるだろう。高橋源一郎は専用の倉庫をもってるほどらしいだから、文学王でも平凡王でもなくアホの王様かもしれない。反対に、内田樹は所持数が極端に少ないらしいけど、なるとすれば何王になるのだろう。リコウ…は無理がありますね。


 そうそう、僕はこんなことを言いたかったわけじゃないんです。じつは、どんなに本をたくさん読んでも買っても、自分のテリトリーから出られないことが私を悲しませるのです。それはわたしが自分の読み方に縛られているからでしょうか。そうかもしれません。しかしたとえば、一度縫い合わせたこのちいさなマフラーの編み物は、いまさらセーターや手袋には変えられません。

中途

ニーチェの引用 2012/8

われわれは真理を欲する、というが、ところで、なぜにむしろ、非真理を欲しないのか?なぜに不確実を欲しないのか?なぜに無知をすら欲しないのか?

いまや、「いかにして先験的総合判断は可能であるか?」というカントの問いに代えて、「なぜそうした判断への進行が必要なのか?」という別な問いをたてねばならない時になった。―すなわち、われわれごとき生物を保存するために、そうした判断が真理として信じられねばならないということ、それゆえにもちろんそれは誤った判断でも差し支えないということを、理解すべき時になったのだ!…

今日ひとが自分の肉体以上に確かだと信じているものなどあるだろうか。

物語の最高頂は劇中劇? 2012/9

 物語を積極的に運用するとき、作家が一度は考えるだろう劇中劇の方法は、メタフィクションといってしまったら台無しになる。それは生涯に一度だけ、それもとっておきの作品にのみ導入するのがベストだと断言してもいいんじゃあなかろうか。それだけ特別だとわたしは考えている。

 これは、セルバンテス以来の古典的な方法であるうえ、名立たる文豪たちによっても使い古されている。が、それでも現代において然るべき使い方を踏まえればその威力は衰えない。ここでその例を挙げても仕方がない。名作として片付けられてしまうものばかりだからだ。

精神分析 2012/9

ラカン派精神分析入門―理論と技法

ラカン派精神分析入門―理論と技法

ラカン読書にずっと躓いているころ、ある意味助けてくれた本。文章が明快すぎて、さすがアメリカンという感想は間違っているだろうか。本書は間口を広くして、理論でなく分析の実践を主な視点にして書かれているわりに、邦訳の値段は高すぎる。じっさい、日本でラカンはどれだけ読まれているのか。「四基本概念」の刷り部数はショックだったけど、やっぱり、全然読まれないのだろう。

マンガと小説 2012/9

 たとえば、ジャンプマンガが各種文化系雑誌や批評の対象にならないのはなぜか、よく知らないけど、商業的・政治的制約≒出版社の意向があると考えて差し支えないような気がする。そもそもマンガ批評自体、最近になるまでまともに成立していなかった理由も知らないくせに、こんなことをいう権利があるかどうかわからない。ただ、そんなことは関係なしに、ここではマンガの小説との関係について書いていこう。

マンガ制作
小説を読んでマンガを書く 小説家もマンガを読む
マンガ出版人の高学歴化

一部マンガの傾向
黒田硫黄
『平成マンガ家実存物語 おはようひで次くん!』の私小説
水城せとな
画太郎
銀魂 ONEPIECE
古くは山岸涼子の純文学 いや、そうなるとカムイ伝や手塚治も小説のよう

中途