書評、時評、たとえば斉藤美奈子
[[書評と作家]]
書評とは無論、作品を紹介することを目的に書かれる。
問題は誰が書いてもウサンクサイことで、それは作家だって同じ。よくあるひどいものは、作者の来歴を述語に用いて、この作品は「〜な感じで」「〜がみそだから」「〜なのである」というヤツ。この「〜」には作者のそれまでの職業的な部分、活動領域、他人の批評の引用等の変形が入る。つまりそれっぽいキーワードを一つや二つ入れるだけ。結局、それを読んだ人は自分の感想以上には何もわからないのである。
といってもそれは当然で、作家同士もお互い作品を読めていないことが多いのだから仕方ない。これはもうそうだとしか思えなくて、確信に近くなってしまった。大抵の作家は、自分の狭いテリトリー以外のものは同時代の作品でも読めなくて、どうせ読者は覚えていないと思ってあとから評価を覆すのも平気だ(笑)。もちろん政治もあるだろうけど。
[[[[斉藤美奈子]]]]
最近、友人に「オモシロイ」ときいて、斉藤美奈子をいまさらながら読んでみた。上記に加えれば、書評家なんて読者に(面白くなくても)読めといって買わせるだけで全然信用できないし、批評以上に対象を選ばないぶん、自分の好みに合うものなんてそうあるはずない。だから期待してなかったんだけど、これが面白い。彼女は、80年代の古いフェミニズムからは一歩抜けたエッセイスト、だったのか。
タイトルは、「文壇アイドル論」と「あほらし屋の鐘が鳴る」(こういう本は古本屋で偶然に手に入れるのでこの組み合わせになった)。
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上野千鶴子や富岡多恵子はなんかわずらわしそうで、金井美恵子はたんに怖くて、女性の批評?はほとんど敬遠してたようなわたしには、たとえそれがいかにも「日本の庶民的女性の感性」に見えても、とっても新鮮。吉田健一らを除いて、ゆるい読み物なら女性のほうがいいかもしれない。
「あほらし〜」では、女性だけでなく多くの若者にとってウザイだけのオヤジ趣味・感性をきれいにすくいあげてからかってくれる。マイナー寄りでも一般誌連載だったらしいので?少々下品で健康的な楽しさ。
「文壇〜」の村上春樹論では春樹を店にたとえて、80年代以降の春樹への批評を振り返りつつ(後出し的だが)論じるエンタメ性に感心(エラそうだけどこの言い方しか思いつかん)。構成は少しミエミエか。気分を軽くしてくれる斉藤美奈子は、読書に疲れた時にとって置いて少しずつ楽しもう。
[[書評追記]]
もともと字数が少ないから、書評に書けることなんて内容以外にない。時評なら内容は除けるけど。そんなわけで、書評には、作品を紹介するという存在価値が一番に来るようだ。それをふまえて、あくまで書評を参照するのであれば、自分の信用できる人を探すのが一番いいか。翻訳家や批評家でも中堅なら、仕事に力を入れてやってるから狙い目なんだろか。大御所や売れっ子は幅が広すぎていけない。でもまあ、国書刊行会とかじゃなきゃ、書評・時評は読まないけど。
追記2
斉藤美奈子「文章読本さん江」を読み始めて、斉藤作品に少し飽いてくる。節ではないけれど、どの本でもずっとノリが一緒なのだ。あと、構成も単調。こう来るだろうなという予測の範囲内だから、つい目が滑っていく。やさしい人は相槌をうってつきあうかもしれないけど、中年の男なら結論を催促しそう。オバチャンの話ってのは昔から無駄に長いものだし、二、三度聞けば耳からすり抜けていくもんだ。それでも読めるのは、庶民感覚を適度に保っているからだろう。あと、付け加えるとすれば、(著者か編集者か知らないが)編集がけっこう入ってると感じさせること。
追記3
とにもかくにも、美奈子姉さんのおかげで小説を広くみれるになってよかった。わたしのなかでの女作家ブーム、女性エンタメ日常人生恋愛小説を「読むこと」への興味も去ったので、これにて一時中断。いつかまた、少女マンガを読めますように。
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個人的メモ
春樹の批評のゲーム性 オタク RPGになじめない感覚は自分がそういう人間でないことを再認識させる